タイトル

コラム - 京洛八社めぐり
ファイルNo

18
施設名

スガワラインテンマングウジンジャ
菅原院天満宮神社
所在地

京都府京都市上京区
烏丸通下立売下る堀松町408
紹介動画


紹介内容
主祭神:
・菅原道真
・菅原是善(道真の父)
・菅原清公(道真の祖父で、遣唐使として空海や最澄らと渡海)


摂社/末社:
・梅丸神社
ほか


創建/建立時期:
・推測で910~950年の頃


菅原道真の曽祖父である「土師古人[はぜのふるひと]」と、
その息子である「土師清公[はぜのきよきみ]」は、
長岡京遷都に伴って、現在の大和西大寺から少し南西にある
「菅原」という地区から、現在の京都市南区に引越しした。
引越しに伴って、住んでいた地域を忘れないようにと、
性を「菅原」にかえた。


平安京遷都となった折は、長岡京よりも近いことから、
内心は「内裏が近くなった」と喜んでいたといいます。

802年(延暦21年)
清公は遣唐使の判官に任命されて、最澄・空海らと渡海。
彼は大陸で風習・文化などを持ち帰った。

当時の大陸では、大臣の事を「相」と呼んでいて、
官職の人々は、同じような着物を着ていた。
その他の官職などの呼称も併せて持ち帰った。

それを持ち帰ってきた人間こそ清公である。
嵯峨天皇は大陸の政治を真似て、
太政大臣・右大臣・左大臣を「相国」と呼ぶようにして、
役人達が来ていた着物を、一種の制服とした。

それは・・・現在も使われている「首相(相のトップ)」という単語、
天皇陛下が催事で俟とう「束帯」になります。
※他にも、中書とか仙洞とかの単語yも輸入しました。


上述の文化を持ち帰った功績として、
清公には内裏に近い場所に官舎が与えられました。
それがここ菅原院天満宮の場所になります。

そして、清和天皇などに教鞭を取る事になり、
息子の是善もその役目を継ぎました。

是善夫妻もこの地に居住していた点から、
「道真生誕の地」の説があり、
道真の産湯として使用した井戸があります。
ここまでの「吉祥院天満宮」「菅大臣神社」と続いて三箇所目です(^_^;)


太宰府で没した道真の怨霊の鎮静として、
道真の没後に空き地となっていたこの地に、
歓喜光寺[かんきこうじ]が建立されたのが始まり。
※歓喜光寺は山科区に現存。
 戦乱による荒廃や区画整理にて、統廃合された結果。

いつに神社に改造されたかは不明です。

烏丸通りに面しているので「烏丸の天神さん」との愛称もあります。

室町時代は「武衛(斯波)家」の屋敷だったそうで、
応仁の乱の頃は、比較的東西の中立なポジションだったので、
被害は最小限だった点から、将軍が滞在する事ができた。
特に、足利義輝は、ここで将軍宣下を受けており、
弟の義昭も同じく。

将軍の座所としては危なっかしいので、
信長が突貫工事でお城に変更させて「二条城」と呼ばれた。

しかし義昭が信長に立てついて、備後に流れていくと破却。
堀なども埋め立てられたようです。


お城だった処の現在は、当社と平安女学院の校内となっています。


アクセス:
・地下鉄烏丸線丸太町 下車 烏丸通りを北へ50mほど。
 烏丸通り沿いにあります。


<CE見聞録>
じつにコジンマリとした天神さんにて、
「ウナギの寝床」という言葉がシックリくる天神さん。
そのまま北へ100mほど進むと、護王神社があります。
すぐ東側は京都御所の南西側の角とか、
また足利義輝が移った二条御所跡の看板も、すこし北の交差点を西へ50m以内。
歴史深き「烏丸丸太町」にあるので

ついでにどうでしょう。

現地の写真

頂いた御朱印

京洛八社めぐり
京都市内にある八カ所の神社を巡る一種のスタンプラリーにて、
平安・室町・明治に建立された神社が対象です。
ちなみに、半分が天神様に縁ある所です。

烏丸通りに隣接や、近くだったりするので、
地下鉄と市バスを効率よく使うと、日中に回れます。
紹介動画

社号 鎮座地 紹介
文子天満宮 下京区間之町通花屋町下る天神町400
菅大臣神社 中京区仏光寺通新町西入る菅大臣町187
下御靈神社 中京区寺町通丸太町下る御霊前町
菅原院天満宮神社 上京区烏丸通下立売下る堀松町408
護王神社 上京区烏丸通下長者下る桜鶴円町385
御靈神社 上京区上御霊堅町495
白峯神宮 上京区今出川通堀川東入る
水火天満宮 上京区堀川通寺之内上る2丁目扇町722-10